神様・仏様 は、いる・いない? あとは、幸せの話など。

  • 2016.05.02 Monday
  • 00:18
写真は、「真実」を「写す」と書きます。
「実際のところ、どうなんだ」という議論はさておき。

現代の日本で、物質的優先型の世界にいると、
つまり、ピカッと光が当たり、パシャっと写真を撮ると写るものだけが
万人にとって「真実」であるとする世界にいるならば、

この「神様」「仏様」は姿・形のない
歴史や、概念やイメージや思想や、第6感的な世界の登場人物なので、
確かめようがないですよね。

とすると、
「いる」と思う人にとってはいるし、
「いない」と思う人にとってはいない。

なんで「いる」と思う人と「いない」と思う人がいるのかとすると、
半分は、生まれ育った環境。
あと半分は経験。

乱暴だけど、話が進まないので、一旦そう定義づけてみます。


「いる!」「絶対いる!」「信じている!」という人は、そのまま大切にされるのが一番かと思います。


そして、
「いない!」と思う人は、もうちょっと掘り下げていくと、
「信じたくない。」
「信じるのがこわい。」
「信じても報われない。」
という人口って、それなりにいるのではないかと。

そして、
「いる」と思う人の中で、もうちょっと掘り下げていくと、
「いないことはないと思うけど、いるような、いないような。お参りにもいくけど、ばめんでー」(どっちでも対応します、的な。)

という人。

ひょっとしてこういった人たちは「幸せを諦めている人」と言えるのではないかと感じていて、
ぶっちゃけ、神様や仏様がいてもいなくてもどっちゃでもいいのですが、
なぜなら、いるとしたら、神様や仏様は
「私が幸せになるためにサポートしてくれる存在」であって然るべきだからで、
幸せではないのだとしたら、そしてこんな風に思っているとしたら、

掘り下げると、

(顕在意識)
「いない!」
「信じたくない」
「信じるのがこわい」
「信じても報われない。。。」
「信じてるけど、うっかり信じすぎて、裏切られたときにショック受けないようにリスクヘッジ」

(潜在意識)
→だって、いるんだったら幸せにしてよ。なんで、今こんなに不幸なの。
→神様のアホ、バカ、マヌケ。神様だったら助けてよ!
→自分が幸せになれる気がしない。
→なんで、自分が幸せになれる気がしない、と、思うようになったのか?←ここが重要な気がします。


・・・車や自転車の運転をしたことがある人なら、みんな分かると思うのですが、
自分が見ている方向に、進んでいきます。

人生もきっと同じ。

「自分がこっち!」と思って見つめている方向に、進んでいきます。
猛烈にスピード出して、追い抜き車線をひた走る人は、
めっちゃ前に進むし、目的地に誰よりも速くたどり着くけど、
周りの景色や、途中の温泉や、美味しいお料理や、地元の人たちとの交流から得られるものはないし、
周りの車が気になって、おどおど車線変更もままならないような人だったら、
もう、道を走るだけで気づかれしてしまって、会社でもそんなで、しんどくてたまらないかもしれないし、
「だって神様なんていないし。前になんか、進めないし。」
と、逆走していては、いつまでたっても幸せという目的地には着けないし。

「なんで、自分が幸せになれる気がしない、と、思うようになったのか?」
「なんで、自分が幸せという目的地を目指さなくなったのか?」
「途中で、どんな事故が起きたのか?」
「なんで、その事故が起きたのか?」

ここら辺が解消されると、
神様や仏様がいてもいなくても、
新しいルート発掘して、自分に合った乗り物や運転の方法が見つかって、
幸せにたどり着ける気がします。


自分が、今どこにいるのか。そして幸せの目的地はどこにあるのか。
「まずは、それをハッキリさせようよ〜。」・・・それがナムフォトだったりします。

幸せの目的地を問いかける「質問」をたくさん用意しています。
ただ、「未来」は目に見えないので想像するのが難しい。
なので、まずは現在から。そして過去も。
書き出して、そして写真を撮ります。


ご祈祷する前に、
名前・住所・ご祈祷内容とかを書きだしたりすると思いますが、そんなかんじです。

自分にお参りするかんじです。


いるか、いないか、半信半疑な神様仏様に頼るのもいいけど、
自分の現在、これまでの過去を頼ることって、とっても現実的なんじゃないかと思っています。

なんか、、、PDCAサイクルと、結局同じことかなって気もするけど、、、
どうにもこれだと、左脳に寄り過ぎた印象を与えるので、そうは言いません。

人間、本当に変わるときって、左脳ではなく、右脳、
もしくは、パッション(心や感情)の要素が大きいのと違うかな?


あとは、「神様仏様」を信じすぎて、
どこかで何かがすりかわり、
「自分が神様・仏様」を目指すようになると、なんだかそれもやばい。
・・・なれないのですよね、それは、死なないとね。


私、とっても人間でありまして、日々感情が揺れ動き、そして
「怖れていること」をとてもたくさん持っています。
私は、なんと、とっても感受性の強い人間なのです。(通知表に書いてあった)

感じてしまったときに、
「感じてもいい。」と受け入れ、
「感じてしまったとて、実は、死んだりしないのだ!」と、気付き、コントロールすることを覚えて、
なんとかやっていますが、
「風のように、消えて、いなくなりたい。」って思っていたときは、本当に人生がそういう風に進んでいって、危なかったです。
写真(と、ダンス)が、私を光の世界に引き戻してくれました。


私が、こんな経験を持っている、ということは、
大なり小なり、みんなもそんなことがあったりするのかな、と思ったりします。



今日、伊勢神宮へお参りへ行ったとき、
たくさんの人が訪れてて、いろんな話しているのが漏れ聞こえてきて、

「昨日、職業聞かれてさ、ついに”フリーターです”って言ったよ〜。受付のねーさんが、”あ、無職ですね!”だって。」

とか。。

「え?この建物もご利益あるの?」

とか。。

「感情的になってさぁ、ついつい、ムッとした表情しちゃったりするんだよね〜。」

とか。。


そうかーーー、みんな色々あるんやね。私も似たようなもんやで。

それでも、この場に足を運ぶということは、
「幸せになりたい。」って、みんな等しく願っているんだなぁ。って。。

心の中で、勝手に「同志やな」って思えてきて、楽しかったです 笑。


なんで「幸せ」がこんなに難しい世の中になってしまったのだろう。
一つは、周りや、SNSや、メディアの声がうるさすぎるのではないか?

でも、その環境にとどまっているのも自分の選択ですものね。

ってことで、私は、これからもお参りしたり、写真を撮ったりして
まずは、自分にとって何が幸せなのか、きちんと自分と繋がっていこうと思います。

「ナムフォト」を形にできることは、大きな幸せの一つです。


今、十分に「幸せ」を十分に感じられている人は、そのまま、進んでいってくださいね!!!
きっと、周りの人も明るく照らしてあげることができると思います。

私は、人生を振り返ったときに「幸せではないところ」から記憶がスタートするので、
やっぱり「まずは、幸せに、なる!」ことに、興味があります。

でもって、今後ますます「自分の幸せ」も、受け入れていこうと思います。


余談ですが、アメリカでは、「幸福論」という学問が、学術的に盛んに研究されているらしく、
日本では、慶應義塾大学教授の前野隆司先生が第一人者だということを教えてもらい、
著書の 「幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)
という本を読んだけど、、、、
私には、全く役に立ちませんでした!!!

びっくりぽん。

「幸せな人がどういう状態か」は分析されてたけど、
「今、幸せでない人が、どうしたら幸せになれるか」については
「開き直れば、人間変われる」という論法で、ちょろりと触れられているだけで、
「えーーーーっ!?」となりました。




ちなみに、私は神様も仏様も、どっちもその様な存在はいると思っています。
生まれ育った環境や歴史的にってよりかは、
インドへ行ったときと、また、とあるお坊さんに出会ったときに
霊的な体験をしたから、ってのが大きいのです。



あと、単純に、お参りすると、心が落ち着いて、
すーーーっと、気持ちよくなるし。

すーーーーっと、しますよね◎


ところで、
「神様・仏様もバツ」
「自分もバツ」

・・・それでも幸せを求めている人は、なんでもいいから自然に触れるといいんじゃなかろうか。
あとは、身体を動かす、やね。


「森林の中で、ナムフォト」、いつかやりたいなーと思っています☆
「ダンスで、ナムフォト」、、、もはやフォトではなく、「ナムダンス」?

まぁいいや。


Good-night☆

 
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